愛染院の縁起
宗旨 | 真言宗豊山派 |
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本尊 | 大日如来 |
御府内八十八箇所第十八番
弘法大師が関東を巡り歩いたとき、麻布に善福寺を開き、愛染院はその奥之院と伝えられる。その後、京都の伏見にある稲荷山の愛染院の本尊、五指量(五本の指の幅)の愛染明王を迎えて祀ったことがはじまりと伝えられる。この愛染明王は加藤清正が兜の中に入れて、朝鮮出兵のときには連戦連勝したという言い伝えがある。
愛染院の沿革
- 慶長16年
- (1611)
- 正斎が江戸麹町(今の平河町)に 土地を拝領し、寺を建立する。その後、鎮守神の伏見稲荷とは疎遠になる。正斎は加藤清正の肉弟と伝えられ、大和(奈良)長谷寺の梅心院光誉(二代将軍秀忠の乳母の子)の弟子であり、光誉が徳川幕府の祈願所である筑波山知足院の江戸別院に移ると共に麹町に愛染院を開創することになった。
- 寛永11年
- (1634)
- 愛染院第二世實盛の代、江戸城の拡張工事のため、四谷南寺町(現在地)に移転し、柳澤出羽守や徳川御三家の紀伊和歌山藩の祈願所となっていた。この頃、現在の新宿の地にある花園稲荷神社に別院を設け隠居所とし、三光院と名付けて、その別当を兼務することになった。
- 貞享5年
- (1688)
- 愛染院第4世榮任の代、本寺の知足院隆光により入仏供養し、護摩堂を再興した。(棟札記録)
- 元禄8年
- (1695)
- 本寺知足院は 護持院と名前を変更した。
- 元禄9年
- (1696)
- 榮任は川越城主柳澤出羽守吉明(後の吉保)の命を受けて、所沢三富の多聞院を開山した。
- 元禄16年
- (1703)
- 愛染院は火災により焼失した。
- 享保2年
- (1717)
- 護持院焼失、神田橋門外であったため、城中への類焼を避けて、再建は許されず、音羽の護国寺に合併され、明治に廃寺になるまで護持院が護国寺を兼帯した。愛染院の本寺も護国寺となった。
- 宝暦9年
- (1759)
- 愛染院第8世堯範、本堂を再建した。(棟札記録)
- 安永元年
- (1772)
- 三光院が愛染院の別院から離れた。
- 明治元年
- (1868)
- 愛染院焼失、第24世阿刀宥乗は再興を図り、某華族の邸宅を移築した。
- 昭和7年
- (1932)
- 第26世教純が改築し寺の建物が完備した。
- 昭和14年
- (1939)
- 宗制変更により所属本寺は奈良の総本山長谷寺となった。
- 昭和20年
- (1945)
- 戦災により愛染院は悉く焼失した。
- 昭和35年
- (1960)
- 第27宏純の代に現本堂が落慶した。